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赤堀家の紋(三つ頭左巴)

羽津城祉の石碑(昭和3年建立) 羽津城の由来
第8回
(赤堀在住の青砥様の資料より編集したものです)

四日市近郊の合戦

 元亀3年(1572年)勢州四家記によると、この年羽津城主田原(赤堀)右京亮近宗(国虎)は、滝川一益の家臣で茂福城の目代だった山口四郎右衛門(北伊勢軍記には四郎次郎とある)の招待を受けて茂福城に赴いたが、これは謀略で歓待を受けたあと毒殺され、山口四郎右衛門は、すぐに羽津城を攻めた。城主を失った一族は抵抗したものの多勢に無勢でやむなく開城した。
 天正1年
(1573年)織田信長は長島願証寺を6万余の大軍で襲撃。
天正2年
(1574年)兵を10万に増やして攻略した。 このときの兵火によって四日市近郊の焼失した主な寺院は富田の長興寺、茂福の洪恩寺、蒔田の宝性寺、大鐘の西徳寺、垂坂の観音寺、南いかるがの大膳寺、尾平の永代寺、芝田の善明寺、石塚の赤堀中寺、中河原の吉祥寺、西日野の安国寺、室山の法蔵寺、泊の光明寺などがある。


浜田城ついに落城
浜田城祉の石碑
(昭和51年建立)
浜田城の由来
 天正3年(1575年)6月6日この日未明から滝川一益は浜田城に近寄ってきた。その知らせに、戦力を増やそうとして、赤堀城は赤堀や付近の農民らを集めようとしたが、戦いを恐れたり、結末を予想して一人も集まらずわずか百人余りで城を守った。それでも家臣の中川掃部助(かもんのすけ)日常「かもん殿」と呼ばれていたのか、それを略して「かもんど」と呼ぶようになったと推測される。堀木信濃守らと赤堀城の北千メートルの三滝川まで迎え撃ちに出た。しかし守ることは出来ずたいきゃくして、そのなかほどの森の中で討ち死にした。(それ以来、この森を「かもんど」と言われ老樹の蔭には、苔むした古墳があったそうです。大正5年(1916年)天理教四日市分教会の境内地となりその後建物が建築され現在にいたっている。
 天正3年
(1575年)6月6日夕刻落城寸前に城主田原家4代目の元綱は、我が子の与右衛門重綱を呼んで「われ老いたることなれば、願うところは討ち死になり、汝は夜にまぎれて城を出て、身を全うして一益を亡き者とし、わが亡魂に手向けよ」と涙して申しつけた。そこで東漸寺第8世東玄性(清)法師を軍師として、我が子の田原重綱にとりあえず滝川一益に従うことを命じた。重綱は本意ではなかったが、父の思いに背かず城を出た。田原元綱は
   
おろかなる 瞋恚(しんい)のほむら 吹きたてて  
        我と乗り行く 火の車かな
※瞋恚(しんい)とは怒り、腹立ちのこと
と、辞世を庭石に書き付け、城中にいた13人の家臣と共に城に火を放ち、全員赤堀城(現在の鵜の森神社の南方にあるケンポン梨の下)で自刃した。 一方城を出て美濃へ向かった田原重綱の胸のうちは父の仇を討つ思いに満ちていた。後に織田信勝に属したが豊臣秀吉と織田信勝との戦いで、美濃の国加賀井城で討ち死にした。浜田城の田原家は105年で滅亡した。 赤堀城は、隣接する田城とともに、街道沿いに築かれている。また、築城に際して街道を付け替えた共伝えられれいる。いずれにしても両城は主要な街道近くに位置していることは、経済流通の要衝を抑えていたことを示している。



次回は赤堀城追録

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