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常磐地区ホームページトップ常磐地区の紹介連載 赤堀氏三つ頭左巴 > 第7回

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赤堀家の紋(三つ頭左巴) 伊勢に侵攻した織田信長
小学館の日本大百科事典より掲載しました  
第7回
(赤堀在住の青砥様の資料より編集したものです)
四日市近郊の合戦(前号の続き)
 赤堀城が工藤氏に占領される
 永禄11年(1568年)2月伊勢国司伝記によれば、長野城主工藤藤定は宵から兵を赤堀の近辺に忍ばせ、夜中に塀を乗り越え、一挙に閧の声をあげた。このため城中は、慌てて防戦した。そのとき最初に城中に乗り込んだのは美間小六、佐治広島の2人で、美間小六は弓で敵2人を射たという。その夜の長野家の軍法は敵を討取っても「首はとるな討ち捨てにせよ」とのことだった。それは首を取っていては、能率が上がらないためだ。
 赤堀城主の隠居でト月という80有余の老人を佐治広島が引き立ててきたのを、美間小六は痛ましく思い「そんな年寄りを討取っても手柄にならん」と言えば、佐治広島も尤もと思い放してやった。老人は美間小六に「敵ながら優しい人である」と名を聞き「われは赤堀ト月ぞ」と名乗り家重代の太刀「鎌倉山内助真」2尺5寸(約75cm)を美間小六に授け自害したという。
 赤堀城は築城後、179年で工藤家に降伏し、城主の赤堀景治は美濃の国現在の岐阜県羽島市竹鼻で討ち死にした。
 天文11年(1541年)〜天正3年(1575年)その後、占領された赤堀城は工藤家の家臣となり、赤堀一族の治部大輔が従来の城郭の上に3m余の土盛りをし、その上に城館を建てていたようだ。しかし滝川一益勢の攻撃で浜田城落城のとき、共に廃城と推測される。

第2次の織田信長、北伊勢侵(難敵には政略結婚)
 永禄11年(1568年)このとき織田信長は4万の大軍で北伊勢に侵攻し、先ず三重郡千種城を降伏させ、再び高岡城を攻めたが、亦も激しい抵抗に遭い織田信長は、三男三七丸(後の神戸信孝)の婿入りを条件に政略的和睦を申し入れ、神戸城主の神戸蔵人友盛の娘である鈴与姫の婿養子として和睦が成立。
 元亀2年(1571年)〜天正2年(1574年)までに神戸信孝は神戸家の内部から切り崩し、関氏も滅ぼし、養父友盛を追放した。こうして神戸家は織田信長によって滅ぼされた。

織田信長は初めて京都へ上洛
 永禄11年(1568年)9月上洛を果した織田信長は足利義昭を15代将軍に就けた。
北伊勢では滝川一益はさらに伊勢平野を南下して安濃津城を手中に収めた、ついで安濃城に迫ったが城主細野九郎右衛門藤敦(長野工藤氏の一族)の頑強な抵抗に遭い、戦線は進められなかった。そのとき長野側から和睦の申し出があり、織田信長はそれを受けて、弟三十郎信包(のぶかね)を長野氏に養子として入れ和睦した。信包はその名を長野次郎信包と改め、神戸友盛の姉を妻として長野氏(工藤)の相続者となった。このように織田信長は政略結婚の手段を用いて勢力を拡大した。長野次郎信包は一族雲林院出出羽守父子を滅ぼし長野氏攻略を果たした。
 永禄12年(1569年)信長は5万の大軍で伊勢国司北畠具教、具房父子を攻めたが攻めきれずそこで政略で具房の娘と織田信長の次男信雄(のぶかつ)を養子として結婚させ北畠信雄と名乗らせた。
 天正4年北畠信雄は養父北畠具教をせめ自害させその後北畠氏を滅ぼした。
 元亀1年(1571年)織田信長と徳川家康の連合軍と浅井長政と朝倉勢と姉川で激突織田、徳川勢の大勝利となる。
 その勝利もつかの間元亀1年9月真宗本願寺の門徒との戦いが始まった。伊勢長島の願証寺には多くの門徒が集まり信長に追われた美濃の武士も集まって一大勢力となった。そして織田信長に頑強に抵抗した。織田信長の一族織田孫七も敗れて自害した。
 元亀2年(1571年)2月5日北伊勢軍記滝川一益は、茂福城主朝倉掃部介盈豊(みつとよ)が織田信長に叛いて近江の観音寺城主佐々木義賢の命に従うとの風聞があり浅倉掃部介を桑名矢田城に招いた。浅倉掃部介盈豊は謀られるとも知らず矢田城へ赴いた。盈豊が大手門に入ろうとしすると、待ち伏せていた兵に一度に斬られ絶命、31歳であった。共の28人も討たれたり逃げたりした。浅倉掃部介盈豊の家臣小川勘右衛門は他に所用があり遅れて到着したところこのありさまを見て門の中へ駆け入り、大勢と斬りあいながら主人浅倉掃部介盈豊の首を奪い取り、追ってくる敵を追い払いながら船に乗り、自ら櫓を漕いで川を渡り朝明郡保々へ落ち、大樹寺のすぐ前に浅倉掃部介盈豊の首を葬った。その「首塚」を今でも命日には法要が営まれている。
浅倉掃部介盈豊の首は現在でも保々のきれいに整備された小公園にねんごろに葬むられております。石塔と由来が設置されています。
 滝川一益は、そのあと2千余騎をもって茂福城攻め城内にいた浅倉掃部介盈豊の伯父下野守入道宗貞はじめ家臣380余人大手門を開いて討って出てほとんど討ち死にを遂げた。浅倉掃部介盈豊の家臣林玄證は盈豊の2歳になる男の子を抱き、夜にまぎれて城を抜け、報乳山洪恩寺(茂福)に入った。その後、成人した盈豊の子は玄證の娘と結婚して、林三郎左衛門と名乗った。
 元亀2年(1571年)5月織田信長は5万の大軍で願証寺を攻めたが3千余人の兵を失い敗退。
 元亀2年9月12日織田信長比叡山延暦寺焼き討ち。
足利15代将軍義昭追放。
浅倉義景一乗寺城に攻めて自害させ浅倉滅亡。
以下第8回へ続く

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