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第2回

赤堀氏の由来続き(青砥様の資料をもとに編集しました)                  
三重郡は伊勢神宮の領地となり、その頃の当市は柴田(現在の芝田)郷に属していた。同地から東の浜村は、湿地帯が海浜まで続いて、その遠浅の海辺に面した集落の地名は、江の西、安島、その北の西浦、江田(えんだ)、間瀬、百艘船、北浜、江の東、高洲など海浜に関連した地名があり、農漁業を営んでいたようです。建仁(1200)頃から承元1(1207)頃の街道は羽津、末永から柴田、赤堀(当時は栗原の地名)を経て日永に通じていた。さて元弘3年(1333)鎌倉幕府が倒れる。建武1(1334)(年号は南朝)後醍醐天皇の建武の新政に対し諸国の武士は権利を制限されるので不満を表し国司と守護大名間に軋轢が激しくなった。建武2年(1335)鎌倉幕府再興の目的で、北条高時の遺児時行らが、「中先代(なかせんだい)の乱」を起こし、足利尊氏は東国へ討伐に赴いて乱を平定と同時に挙兵した。これより南北朝時代へと入ってゆく。当伊勢の国では南朝方の北畠氏が国司に任ぜられ、これに対抗して北朝方の足利方は高師秋を、さらに仁木義長、土岐頼康をつぎつぎにと守護に補任した。そして伊勢の国は南北両朝の戦いが繰り返され、高氏、仁木氏、土岐氏らは没落の運命となり、南朝方の国司北畠氏のみが戦国時代に至るまで勢力を維持できた。延元2年(1337)田原一族は当時の国司北畠顕信から赤堀(当時は栗原と言う)羽津荘合わせて石高3万7千2百貫文宛て行われる。赤堀氏の伊勢への來往の正確な時期については定かではないが赤堀氏と伊勢の関係は神宮領である「勾御園」の地頭職を有していたことがあるようです。観応3年(1352)「赤堀下野守跡」の勾御園地頭職が園城寺衆徒に与えられていたのである。他方、赤堀氏の本貫の地がある上野において赤堀一族の香林直秀が、足利尊氏から渕名荘香林郷を安堵されている。これは観応の擾乱において、直秀が尊氏に味方して戦ってことの恩賞であった。直秀は時秀の子で、時秀は文和4年(1355)の史料に赤堀又太郎時秀として現れる人物である。一方で赤堀氏の総領と思われる赤堀三朗左衛門系が文和2年に上野国赤堀郷貢石馬村、伊勢の国野辺御厨地頭職を安堵されている。南北朝期、赤堀氏は又太郎系と三朗左衛門系が両立していたことが知られている。その後、香林を称していた時秀が赤堀を称するようになり、上野赤堀として続いていることから、三朗左衛門の系が伊勢に移住したと考えられる。又、土岐氏が伊勢守護であったとき赤堀氏は、その被官として活躍し、三朗左衛門、兵庫入道らの名前が史料に見える。                                         以下次号

参考 中先代の乱とは鎌倉北条氏が先代足利が後代でその中間とゆうことで中先代という。

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